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イカ二杯.jpeg

Endless Overture~終わらない序曲
県民性という言葉があるけど、岩手県民というのはかなり特殊であると思う。チャーミングな岩手県民。しかし地元民は意外にその魅力に気づいてなかったりする。せっかく褒めて差し上げても、どーでもいいよ、みたいに賞賛を避けたりする。この人たちは自虐なのかシャイなのであろうか?いやいや、ちょっと違うな。最近たまたま見かけたものに「岩手県民は家族愛が冷たい」というコメントがあって、私はちょっと納得した。
別に悪口を言っているつもりは無いので、どうか気を悪くしないでほしい。私の言いたいことはそんなみみっちいことではない。最後まで読み進んでいけば、ご理解いただけると思う(多分)。

さて、またまた大瀧詠一さんのエピソードである。彼はあえて宮沢賢治を避けていたそうである。大瀧さんは江刺の実家の屋根に電線を張り巡らせて、米軍基地からのラジオ放送を傍受していたという。とんでもない田舎の少年であった。確かに江刺近辺は北側に向かって北上川があるので電波は遮られないのである。さすが大滝さんである。こういう前例の無い発想や行動力においてとんでもないところが、賢治さんと似ている。常人には理解できない前例の無さ加減、という意味でこの二人は同郷のアーチストとしては双璧かもしれない。超変人の二人。でも大瀧氏は賢治に近づきたくなかった、という謎について、深堀って考え、ここで冒頭のテーマに戻るのである。
一般に同郷人以外には距離を保つ、というのが普通の土着愛だと思うのであるが、岩手県民はむしろ自分に近いタイプや家族にすら距離をとろうとする。あるいは無視:無関心を示すことをしばしば見かける。なぜか岩手県民はクールで感情的になりにくい。で、このクールな心の奥には何があるのだろう?答えになるかわからないが、大瀧氏の格言にこういうのがあった。「期待は失望の母である」相手を知れば、期待してしまう。期待すればかなりの割合で失望する。ま、真実である。人はどのような時に最も絶望するか?というと「裏切られたとき」である。夕飯の献立から連れ合いの態度まで、些細なことであろうとなかろうと、期待を裏切られる時、人の脳内には多大な「失望の物質」が分泌される。これに脳みそは到底耐えられないので、子供は泣き喚くことで発散する。大人の場合はギャーギャー泣くわけにもいかないわけで、失望は怒りに転換されたり、自虐に走ったりするわけである。だから大阪人は失望を「笑い」に持っていくし、京都人は芸能へと昇華してきた。健気で真面目な上、心優しくクールな岩手県民は、期待を「無関心さ」に落とし込んだ、というのが私の結論である。冷淡というより冷静かもしれない。ここまでは普通の話である。しかしこの天才たちは只者ではないので、誰に期待するでもなく多くの作品を、世に出ないまま作り続けていたのであった。

次回は制作する心と、作品の宿命についての話「花巻病院と賢治の花壇~消えた赤煉瓦の謎」です。
(ジオラマE O)

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